7/06/2023

古代コンクリートと『長七たたき』

土間はやはり粘土では亀裂が入りやすい。かといって砂を増して『たたき』風にする当初の案もあったが、そうなるとほぼほぼコンクリートモルタル仕上げのような肌合いになる。

ちょうど適した塩梅を調整する手間を考えたら、『たたき』の主材料のサバ土(別名、山土・真砂土)を取り入れた方が考えることも無く早く済むのではないだろうか。

そう思って早速建材やでサバ土を注文することにした。


古代セメントを使った『たたき』
従来の『たたき』はコンクリートの1/15の圧縮強度だが、こちらはコンクリート並みの硬さになるのに加えて火山灰の持つ性質である湿度や電磁波を吸着する能力が高い。その点は珪藻土と共通した特徴を持っている。ゼオライトのように放射性物質を吸着する性質も高い。

これを施した土間でアーシングなどするとその違いが歴然とするだろう。

また従来の『たたき』は屋外だと雨に当たることで劣化が激しくなるが、当『たたき』はこれを解消するに違いない。またこれは関係ないかもしれないが、海水に漬かれば漬かるほどに長寿命になっていく、不思議な性質をもっている。

あえて難点と言えば、従来のコンクリートのようにすぐ固まらない。要するに次の工事や施工に早く取り掛かれない。なので今のような効率と経済重視の市場では成り立たない。


このコンクリートに匹敵する硬さの『たたき』で思い出すのが『長七たたき』である。

明治時代に活躍した服部長七が考案した『たたき』のことで、日本各地の港湾堤防工事などで使われてきた。

『長七たたき』が発明されたのは明治9年(1876)。

水中でも固まる人造石の特性から、海岸や河川の堤防工事に使用されてきました。

しかし、セメントが日本でも普及するに従がって需要が縮小していき、その内世の中から忘れ去られてしまったのである。


また長七は『人造石』を発明したことでも有名だ。

『人造石』とは、『長七たたき』の技術を、大規模な土木工事等に改良したものであると言われている。その核心となる材料には共通するものがあるだろう。

長七について調べると、その調合方法について不明瞭に書かれているものが多い、私の経験と知識から判断して正確ではなく、核心が別のものにすり変わっているのが見てとれた。

単に普通の『たたき』の材料を調合したものとして語られているが、それでは出来ない。

また(株)INAX基礎研所のX線回折で検出された材料で実験してみたが出来なかった。

おそらく本当のことを隠しているのかもしれない。そう勘繰りたくなるのは熟練の左官職人なら経験から矛盾していることが分かるはずだからである。

このあたり本当のことを公表すると先ず左官職人が試してみて実証し、それを横目に産業化に乗り出す輩が必ず出てきてしまう。

こうして勘繰れば、セメント業界からの圧力を避けるためにとった処置かもしれない。
あるいは単に化学変化が進んで元の材料が検出できなかったかもしれない。
 

だが以下の文献におそらく正しいことが記されている。 ここでは単に石灰と記されているが、間違っても消石灰ではなく生石灰の方であろう。

たたき材料の配合比率については残っている記録が極めて少ないが,各種の史料・文献からつぎのような重量比の例を拾うことができる。

 

○宇品築港工事(明治17~22年)    石灰18%,種土82% 

 

○神野新田干拓工事(明治26~28年)  石灰約30%,種土約70% 

 

○明治用水頭首工工事(明治34年)   石灰1 対 種土10

 

○名古屋港管理組合による配合例    石灰1 対 種土10~12

 

 

以上の例における種土には,すべてマサが用いられている。人造石の技法が安定してきた明治後期には石灰とマサの配合比率はほぽ1対10のあたりに落着いていることが読みとれるだろう。 入造石の施工に当たっては,原土の選定と精選(粒度調整など)、石灰との配合比率と混合(空練り)。加える水の量と練り合わせなど多くの留意点があるが、最も重要なコツは練り土の打ち込みにあった。練り土を少しずつ足しては締め木でたたき締め,さらに木蛸 つきぼうや椙棒で打ち締めることを繰り返して,総体的によく圧縮した。この打ち込みの入念さは,伝統的なたたきの経験に基づいているのだが,きわめて日本的な特徴を感じさせるものであり,当然ながら多くの人手を必要とした。 このように人手のかかることがやがてコンクリートに押されていく1つの理由にもなった。最近になって,たたきを復元しようとする試みが見られるが、その最大のネックもこの人海戦術にあるようだ。
参考文献:伝統の天然セメント”たたき” 


長七はその材料や配合方法を何度も繰り返した末に編み出したようだ。

当時それを『人造石』で商標登録していたが、なぜか技術特許を申請していない。他に彼は別件で2件の特許を取得しているにも関わらず。

この『人造石』に関してだけ申請しなかった理由は、申請する前に博覧会場で現物を展示していたからかもしれない。あるいは公開するとまずいことに技術を盗まれるだけではなく、使われないでこの世から抹消されることを知っていたかあるいは知らされたからかもしれない。



それで秘伝として愛弟子のみにノウハウを伝えたのだろう。服部長七(服部組)は人造石を独占的に施行し、工法は漏れないようにした。


 


人造石工法は明治10年代から30年代にかけ、鉄筋コンクリート工法が普及する過渡期において、全国各地の築港、干拓堤防などの土木工事に採用された。とくにこの時代には独占的にというほど多くの人造石工事が服部長七(服部組)によって行われた。明治30年ころには全国に数十カ所の支店を持っていたほどだ。

 参照 服部長七と愛知の人造石遺構

これは後々のセメント産業を発展させていく財閥にとっては 脅威だったに違いない。


「長七たたき」(人造石)の技術は生きていた。

カンボジアの世界遺産・アンコール遺跡のバイヨン寺院。その北経蔵の修復が、ユネスコの日本国政府アンコール遺跡救済チームにより、平成11年(1999)9月に完了しました。

このバイヨン寺院北経蔵の基壇修復を可能にしたのが、明治時代に発明された「長七たたき」(人造石)の技術です。 化学的な物資は一切使えないため環境を損なうことなく、尚かつ、従来の工法の約30倍の強度を持つ「長七たたき」。明治時代の技術が、世界遺産を後生に残すために活かされました。この先見の技術の発明者こそ、岩津天満宮・中興の祖、服部長七翁です。
参照:明治時代の技術が活かされた世界遺産・アンコール遺跡の修復

 







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