10/23/2009

メビウスの橋と無限大の穴


さて、ここで重要な矛盾が見えてくる。
通常の無限大は、平面に描かれた線で表される。これがユークリッド幾何を通した目に見える形だ。
だが、その成り立ちには、先に示したメビウスの輪の要素が入り込むことで成り立っているともいえる。
前回、メビウスの橋をトポロジー的に限りなく細くしていくことそれをで示してきた。
この発想でユークリッド幾何を分析すると、矛盾は以下のようにいえるだろう。
平面に描かれた無限大は実は二つの穴であって、その穴をつないでいる輪郭の交点はねじれている。そして平面はこのねじれの交点を界に裏側にと通じている。
もちろん、実際紙に描かれた無限大はそうなっていない。いや、物理学の世界では成り立つのかもしれない。
それはさておき、思考の世界でこの、ユークリッド幾何学の矛盾をそれ自身の世界観・観点で暴くことできた。しかし、それ自身でユークリッド幾何外の世界観を解き明かそうとするのは限界のようだ。
過去、このような課題に取り組む人たちを随分見てきた。
例えば、ロシア構成主義の創始者であり美術家、彫刻家のナウム・ガボ。その作品には試行錯誤と練磨の跡が見て取れる。
絵画ではもちろん、M・C・エッシャーが先頭に立ち、日本人では彫刻家の堀内正和が挑戦している。


 



10/17/2009

メビウスの輪の変容(反転)

 前回、メビウスの輪と無限大の記号との関係について述べたが、その内容は言葉のイメージでは伝わりにくいと感じた。
そこで、今日は絵図でメビウスの輪の変容を示してみたいと思う。
 メビウスの輪の面半分をテーブルの面に沿って広げていった状態である。それは右の絵図の上から2段目で示している。
作り方はその上の絵図が示すように、紙に縦長のHを書き、それに切込みを入れ、その中央の紙辺を起こし、その端を互い違いに(a-a')貼り合わせればよい。
多少全体がゆがむが、実際の現物の方がより具体的に見えるので試作をお勧めしたい。
幾何学の比較的新しい考え方でトポロジーといった分野がある。面の要素が同じで、そのかたちを変化させることで、その中の不変の要素を導くことができる。
この面の要素を永遠に広げていけばメビウスの輪の反転を示すことになる。
 既にかなり変容を行なってきたが、さらに現物を元に直感を使ってトポロジーによる変容を行なってみよう。
3段目の絵図はお分かりになるだろうか、切込みを入れたHの線を曲線に変化させてみた図である。このイメージは紙では無理なので、曲面を生む材料でできている、例えばプラスチックやゴムシートのようなものを想像していただきたい。
このように見ると、その中央の橋がねじれ、表裏の空間が曲線を描きながらスムーズに一体となっている様が理解できるであろう。さらに、トポロジー的にその中央の橋をよりスリムにしていけば無限大へと戻る。

10/14/2009

無限大とメビウスの輪

 無限大は一本の線で表わされている。これをねじるとは、すなわち極限まで太さのない線をねじることを意味している。
この場合、以下のようにも説明できる。
「線の内側と表側が入れ替わっている、それも目に見えない極微の世界で。」
これを説明するには、やはりメビウスの輪の登場だ。
オランダの画家エッシャーはユークリッド幾何学から導かれる世界観の矛盾を絵画で示している。だまし絵として知られているが、実は彼の絵画はある真実の入り口を示している。我々の感覚が麻痺しているため、つい絵画にだまされるような感覚を覚える。
平面の世界で蟻は、その表も裏も一続きに歩いている。
本来、人が手を加えなければ一枚の紙の表裏が一体になることなどはありえない。
 以前、実験的にこのねじれた面を延長させて広げてみたことがある。限りなく広げテーブルいっぱいに面を拡張した。するとある不可能なことが分かってきた。
どこまで広げていっても一つの穴を埋めることができない。
しかもその穴の入り口の面はねじれており、裏と表側がつながっている。これはイメージも膨らませ、さらに地球全体をその平面で埋め尽くしていっても不可能だろう。最後に地球の反対側まで面を広げていたとしたら、究極的に小さな穴ができる。その穴が幾何学的に閉じるかどうか問題ではない。
むしろ、球という立体の内部と外部は一体であるという事実が浮かび上がってきた。
すなわち、球に限らず、あらゆるユークリッド的立体はその外部と内部がどのように密閉されていようと極微の世界において微小な穴を通じてつながっている、という思考の事実が現実化してきたのである。
内側と思っていた空間が外側でもある。この思考の事実はエッシャーの絵によく描かれている。
無限大の記号がねじれているのはこの内外空間の事実を示しているのではないかと思う。

10/13/2009

フォルメン線描と無限大記号

 フォルメン線描に円は見当たらない。そのほとんどが交差する曲線で表わされている。私が思うに、円もフォルメン線描の要素が含まれているが、それは上位概念の範囲になる。この線描の際立った特徴は交差する曲線で成り立っている点である。
その要素の最も単純化した形であり、構成単位(Module)といえばよいか、それは無限大という記号で示すことができる。この無限大、数学の記号で歴史上出てきたのは17世紀で比較的新しい。しかし、この記号を考えた数学者は、神秘学にも精通しており、彼のオリジナル記号ではない。もともと無限大を意味するエジプトかギリシャの古代文献から引き抜いたと思われる。この記号は八の字を横にしたものだ。線の状態ならフォルメン線描であり、円をねじったかたちでもある。
 しかし、ここでなぜねじっているか、という疑問が浮かんではこないだろうか。円はその出発点も終点も定かでなく、線の流れが永遠に続くことから、こちらの方も無限を象徴してはいないだろうか。
たしかに、円は無限を意味している、禅の修行でもこれを使って瞑想するし、曼荼羅には頻繁に使われている。また、ウロボロスの蛇も無限を意味している。自分の尾をくわえ輪になった蛇(ドラゴン)がそのいわれで、その終わりが始まりとなることから、次第に「永遠性」などの意味を持つようになったそうだ。
さりとて、この無限大記号、その円環をねじっているからには、別の意味を付加させているに違いない。

10/11/2009

フォルメン線描と水引


 フォルメン線描なりフォルメン画を立体で表わすことは、イメージ画でも実際にも容易にできる。実際、ひも状の材料を組む手芸の本も数多くある。その種類はアジアのパターンが実に豊富に載せられている。組み紐もその一部であるし、日本の水引はハットする美しさがある。
右に載せた写真は水引で、のし袋とは違うものに取り付けられていたものだ。色合いも美しいので手元に残しておいたほどだ。このフォルム(かたち)のパターンは、ほとんどケルト文様になっている。古来から引き継がれたパターンかどうかは分からない。
 ここで、このようなものを立体にするとは、そのフォルムの流れ自体を立体化すると言ったほうが良いだろう。水引によってできるフォルム(かたち)の帯は一本の線が複数平行に並列することで成り立っている。
 このあたり、直感的に分かるだろうか、本質的に、面の成り立ちと同調することが。
ユークリッド幾何学における面は、線を平行移動することで形成する概念である。
その観点からすれば、この水引は立体の範疇には入らない。だが、このフォルムの帯をユークリッドの平面と見なすならば、交差する帯と帯の隙間はほとんど空間が入る余地がない。とは言え、ありえるので若干面がゆがみ、立体となりえるのか。
 この点すでに矛盾が出てきた。そこで、次回はフォルメン線描をより単純化してこの課題を掘り下げてみたいと思う。


10/10/2009

フォルメン線描の変容



 フォルメン線描は主に線で描かれる。装飾として楽しむより、むしろ体験を目的としているからだろう。
ここではフォルメン線描の要素を変化させることで幾何学の話をほぐして説明しようと思う。そう、それによってプラトン立体やそれを成すユークリッド幾何学の矛盾を掘り下げることができるだろう。
 前回示した線描の図はほとんど細い紐の線で描かれており、その交差部分は線が交わっているように見える。
しかし実際の線描の、この手の描き方の形式から、線は交差していることが規則となっている。だからこの線描は途切れないで一筆書きとなっている。
 線描を太くした図を示してみよう。この図からケルト民族の文様が見て取れる。
その他の民族の工芸品にも現れているこのパターンには共通点がある。常に紐状の存在が互い違いに交差するのである。
 これを考えた民族には平面という概念が育ってはいない。と、言うよりも平面を我々とは異なる方法で見ていたといってもいい。後でゆっくり述べるが、私の発する平面も普通ではない。平面が渦を描いている。それはさておき、彼らはどう平面を捉えていたのだろう。
 例えば、四角い平面のみを描いてもらうようにお願いしてみよう。たぶん戸惑いながらこのように描くだろう。
戸惑うのは、四隅の角だ。それ以前に彼らが我々が描くように線で真四角を描くことには抵抗があることをあらかじめ言っおかねばならない。
本来この四隅の紐の輪によってできる交差は、連綿と続く形式の一部であり、彼らにとって四角は独立していない。その様な目的が見当たらないし、彼らは満足はしないだろう。
しかし、あえて描くならばこの様な図となる。四角そのものは、たとえ細い線となっていったとしても、考え方、想像のビジョンとしての四角の四隅は空間が紐にひきつけられて回転している。そして四角形の空間を見てほしい。紐である四つの辺は互いに交差しており、内部空間は左方向へと回転する。
 このフォルメン画でユークリッド幾何を端的に説明するならば、ここに描かれている紐を極限まで細くしていったものと捉えて良い。
本来、四角はこのようなフォルメン画で示したような空間になっている、とは言わない。しかし、線で描かれている様に空間が微動だにしないのは直感的に受け入れがたい。ましてや四隅の角は何らかのエネルギーを表わしてもよさそうである。
実際、これが量子力学の世界ならば、物質を成すエネルギーはフォルメン画のように揺らぎを示しているのだろう。
 このように見てきた古代の世界観は、自然の造形から受ける印象もそうであるが、自然からえられる材料で編んだり、織ったりする過程で培われたものだ。原初的ではあるが理にかなったエコロジカルな発想で、どの民族にも共通するゆえんである。
 では、このフォルメン画を立体で表現していくと、どのようなことが分かってくるのだろうか。
立体と言っても、浮き彫(レリーフ )ではない。レリーフではその裏側まで表現できないからだ。

10/06/2009

フォルメン線描


ケルト文様を始め、縄文土器、インカの装飾品の他、古代文明の文様には共通の世界観もしくは空間把握のパターンが存在する。
右の図はその共通の要素を抽出したパターンの一つで、フォルメン線描とも言われている。
シュタイナー教育ではこの線描を用いて繰り返しパターンを身に付け創作を行なっている。眺め、曲線を描き、その線の流れを思考に浸透させる。線を描くことでその周りの空間も同時に引き寄せていくことを感じる。その空間は自らの空間を突き抜け再び戻ってくる。
そうすることでこの線描には、人の思考をほぐす役割がある。
通常の社会生活の思考パターンでは、思考はややもすると周りの非有機的な空間に影響されて遮断された三次元空間へと押しこめられる。ドアを開けても常に同様の空間が永遠に続く。たとえ豊な自然の中におかれても思考の開放が継続することはまれである。
思考は本来、自分自身を常に見つめることでバランスを保つ。しかし空間の外に解き放つことのない思考は己がどのような状態か、何者なのかさえ知ることを困難にさせる。
我々文明はこのフォルメン線描を代表とする縄目式文様を単なる装飾というカテゴリーで収めている。しかし、そこにはユークリッド幾何学の概念とは異なった図柄によって、それらを想像する人々の幾何学的思考が読み取れ、いまだ知られていない知識や気付きを与えてくれる。それは宇宙観であり、そこから事物の力・エネルギーをどのように捉えているかが伝わってくる。





10/02/2009

建築の起源

 建築物においてドームは、技術的に最も難易度が高く、柱のない空間を天空に見立てることで、古代より主に神殿など特別な目的のための聖なる空間とされてきました。しかし建築の起源をさかのぼれば、聖なる空間には家族単位の住宅もあり、死者を祀る空間である墓にもありました。
 太古の時代、建築の始まりは洞窟にあるというのが一般的ですが、それは今日まで遺跡として遺されているからでしょう。実際洞窟は少数で、むしろ大半は樹の上が安全なので、蔦や木々の枝をからませて住んでいたのでしょう。そのあたりツリーハウスといってもいいでしょう。
 しかし、地上に建つ人工的な建築物となると異なります。死者はもう樹上には上がってきてくれません。そこで何らかの死者を祀るところを印で作る必要に駆られます。その印でありシンボルが単に小山から人工的な祠に発展した可能性は高いのです。この祠が地中に空間をつくり、定住民ならば何世代も繰り返すたびに拡大し、それに伴いその間に培った技術が住居に応用されていったのではないかと察します。
 紀元前以前のイタリアのある地中海の島には今でも円形状の石でできた集落の後が見受けられます。これは有史以前、アトランティス時代以降、その民族の末裔が住んでいた跡だと思います。